【深掘り日本史vol.1】阿衡事件と平清盛
平安時代は、天皇と朝廷の時代。平安時代を含む日本の古代は、天皇と朝廷の制度を軸に動いていきます。
そんな平安時代のふたつの出来事、「阿衡事件」と「平清盛の太政大臣任官」。
年代も大きく隔たっていて、教科書でもこのふたつを結びつけて書かれていることはおそらくないでしょう。
しかし、これらの出来事を並べてみてみると、平安時代の社会のしくみが大きく移り変わっていくことがわかるのです。
「貴族の社会」から「武士の社会」への変化。これは実は、武士が領地を守るために段々と力をつけていった、というような単純な話ではありません。
今回は、「平安時代の政治制度」をキーワードに、「阿衡事件」「平清盛の太政大臣任官」を読み解いていきます。
阿衡事件とはなんだったのか?
さて、そもそも阿衡事件とはなんだったでしょうか?
阿衡事件は、9世紀後半に藤原北家の藤原基経が、宇多天皇に「阿衡」という職に任じられたことをことをきっかけにして起こった騒動です。これを機に基経は「関白」の地位を確立しました。
山川出版の詳説日本史Bには、「宇多天皇が出した勅書には基経を阿衡に任ずるとしていたが、中国の古典に見える阿衡には実職がともなっていないとして、基経は政務を見なくなった。このため、宇多天皇は勅書を撤回して、あらためて基経を関白に任じた。」とあります。
当時の歴史を記述した史料「政事要略」には、文章博士藤原佐世が、「阿衡は地位は高いが職務はない」と述べ、それをうけて基経は職務を放棄したとの記述があります。
つまり、基経は実権がない官職に任じられることを拒否したのですね。
当時、朝廷は「律令官僚制」と呼ばれるシステムで動いていました。
律令官僚制とは、律令という法律に基づいて役割を定められた国家機関の職員が、国の仕事(徴税や警察、軍事など)を遂行していくシステムです。
トップには天皇がいて、その下に太政官という役所(何人もの職員で成り立つ役所です!よくある誤解ですが、「太政官」という官職名の個人がいるわけではありません)があり、その下には民部省や大蔵省、衛門府などの諸官司がありました。
諸官司から申請が太政官にあげられ、太政官は天皇にそれを伝え、天皇がまず太政官に命令を下し、太政官はその内容を諸官司に下し、諸官司はそれに基づき業務を実施する、という指揮命令系統でした。太政官の中には左大臣・右大臣などがおり、これらの大臣は天皇からの命令を受けたり、諸官司に対して命令を下したりすることができるという職権を持っていました。
基経が任じられた「関白」は、天皇と太政官の間に位置し、太政官の申請を天皇より先に閲覧して場合によっては拒否するという大きな権限を持っていました。左右大臣よりさらに強い権限ですね。
基経が任じられた「阿衡」は、職権が存在しないとされる職でした。基経はそれに対して強く抗議し、宇多天皇と争いました。つまり、基経や同時代の貴族・天皇にとっては、先ほどの「律令官僚制」のなかに位置づけられることが、政治的に非常に重要だったということです。
裏を返せば、「阿衡事件」の起こった9世紀後半には、律令という明文法に基づいた政治システムが、まだしっかりと機能していたということです。
平安時代の貴族政治といえば、なんとなく摂政や関白、藤原道長なんかが好き勝手やっていたようなイメージがありますが、道長より前の9世紀代だと、まだそれなりにちゃんと律令が機能していたのです。
この「律令がどの程度しっかり機能していたか」という問題は、現在の日本古代史・中世史研究者の間でも大きな論争になっている問題であり、そう簡単に答えが出せるものではありません。このコラムを書いていても、こんな雑な議論をしていると各方面から怒られそうでちょっとビクビクしています。
特に摂関期(道長や頼通の時代)をどう見るのかという点はかなり激しい論争になっており、それを議論することはこのコラムの能力を大きく超えています。
興味のある人は、「大津透『道長と宮廷社会』(講談社学術文庫)」や「古瀬奈津子『摂関政治』(岩波新書)」あたりを読んでみるといいでしょう。
平清盛の栄華
さて、ここで話は12世紀後半に飛びます。平清盛の時代です。
阿衡事件が887年で、平清盛の太政大臣任官が1167年。およそ300年ほどの隔たりがありますが、一応は同じ平安時代でくくられますね。
清盛が太政大臣になるまでの流れを振り返ってみましょう。
清盛は伊勢平氏の嫡男として生まれます。伊勢平氏は強力な院政をおこなった白河上皇や鳥羽上皇に仕え、王権に仕える武士たちの筆頭として引き上げられていった氏族です。具体的には、瀬戸内海の海賊討伐や反乱を起こした武士(源義親)の討伐などの実績を挙げました。
清盛の父、忠盛は、鳥羽上皇から側近として遇され、貴族としての扱いを受けるようになりました。
それまでの伊勢平氏はそれほど高い地位にはなく、源頼朝の先祖である河内源氏が鎮守府将軍や陸奧守に任じられるなどして活躍するのに比べて、地方に赴任する国司の家来(受領郎等といいます)程度にしかなれない存在でした。
清盛の父忠盛と祖父正盛は、院近臣(上皇の側近)に接近し彼らに取り入ることによってその地位を引き上げ、ついには長らく武士の筆頭として活躍してきた河内源氏の地位を凌駕するようになりました。
清盛はその地位を引き継ぎ平氏一門の棟梁となります。さらに、保元の乱・平治の乱で活躍し、かつて武家の棟梁として威勢を誇った河内源氏の源義朝・頼朝を追い落とすと、武士の筆頭としての地位も確立します。
さらには、強力な軍事力を頼む天皇・上皇からの信任により順調に昇進を重ね、1167年についに太政大臣に任官しました。
これについて山川日本史は「その子平重盛らの一族もみな高位高官にのぼり、勢威は並ぶものがなくなった」として、太政大臣就任を政治社会の頂点に立ったことを示す出来事として扱っていますし、当時の史料「顕広王記」には、清盛自身も喜びの声を述べたことが記されています。
さて、ここで太政大臣について少し詳しく見てみましょう。
太政大臣は行政を司る太政官の筆頭大臣であり、その地位は摂関を除けば天皇に次ぐものです。
そのような官職を得たのだから喜ぶのは当然、とお思いかもしれませんが、実は重要な事実が視点として抜け落ちてしまっています。
それは、「太政大臣は地位は高いが職権はない」ということ。
太政大臣は太政官の筆頭ではありますが、摂関期には名誉職化が進み、実質的な職務権限は伴ってませんでした。つまり、「阿衡」とほぼ同じような立場だということになり、9世紀後半の藤原基経が阿衡の職を拒否した理由が、そのまま太政大臣についても当てはまるのです。
ではなぜ、清盛は基経のように任官を拒否せず、喜んでその職をうけたのでしょうか。
その答えは、政治制度の変質にあります。
9世紀後半の段階では、法律に基づいて行政や政治が運営されていたので、公的な官職に任官して公的な権限を握ることが、経済的利益や政治的決定権を得ることに直結していました。おおざっぱに言えば、公的な立場の高さから権力が生まれてきていたのです。
自分の職権を失うことは、権力を失うこと。だからこそ基経は、職権のない阿衡に任じられることに対して、強い憤りを示したのです。
逆に言えば、職権のない太政大臣に任官されることを清盛が喜んだということは、もはや「公的な立場の高さが権力を生む」という図式が成り立たなくなっていたことを示しています。
清盛の生きた12世紀は、自分の子に譲位した上皇(院)が政治の実権をにぎる「院政」の全盛期。そこでは、9世紀のような「公的に定められた職権に基づく政治」は行われていませんでした。
摂関期までは、上皇は政治には関わらないということが原則でした。政治的決定は、律令に定められているとおり(厳密には細かな変質はありますが)、天皇とその下の太政官機構が下していました。しかし院政期の上皇は、天皇の父であるという私的な立場を利用し、国政に強い影響力を及ぼしました。また、貴族たちの政治的立場もそれを反映したものとなり、公的な地位である公卿よりも、院近臣のほうが政治的決定権をにぎるようになります(院近臣が同時に公卿であるケースも多いですが)。具体的には、特定の人間が特定の国の国司任命権や官物(税金)収取権を独占する「知行国制」や、国家の重要な事件を議論する会議が、公卿中心に行われるものから院近臣中心に行われるものに変化していったことなどに現れています。
つまり、公的な制度よりも私的な人間関係のほうが、権力を握る上で重要であったということです。この時代において公的な立場は権力のみなもとではなく、その結果にすぎないのです。
そう考えると、職掌のない太政大臣への任官を清盛が拒否しなかったのも、別に奇妙なことではありません。たとえ自分のついている官職に権限がなくとも、私的な人間関係を通じて影響力を及ぼせばいいだけのことだからです。
私的な人間関係が前面に出てくることは、この時代に武士が政治の表舞台に立つようになることと深く関連していきます。今見た清盛の栄光も、そののちの頼朝による鎌倉幕府創業も、私的結合による政治権力を背景としています。上皇が絶大な権力を握ったことは、実は上皇や天皇、貴族たちが力を失っていく過程の一つのステップとなったのです。
ではなぜ律令官僚制が崩壊し、中世的な私的結合が前面に出てくるようになるのか。その問いもまた、容易には答えられません。単なる政治闘争の結果なのか、あるいは権力形態が変化する構造的な要因があったのか。わたしはおそらく構造的要因があっただろうと思っていて、「荘園」の形態の変化がその問いの大きなヒントになるだろうと思っています。しかしこれはあくまでわたしの拙い仮説にすぎません。この問いには私よりずっと深い知見を持った研究者が取り組んできて、今も多くの研究者が取り組んでいるでしょうが、私の知る限り、この問いに明確な答えを出した人はまだいません。「なぜ古代は中世へと移り変わったのか?」という問いの答えは、教科書には載っていないはずです。どんなに偏差値の高い大学に行ってもこの問いの答えを「教えてくれる」ことはないでしょう。まだ答えがでていないからです。
興味のある人は、まずは「美川圭『院政ーもう一つの天皇制ー』『公卿会議』(ともに中公新書)」あたりを読んでみてください。そしてどこかの大学の文学部に進学し、古代史ゼミか中世史ゼミに入りましょう。
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